旅人、新世界をつくる

旅をしながら新世界をつくっている人の日常

これがなければ始まらない!世界観を表現する前に作らなければいけない土台とは何か?

ファンを増やすためには、世界観を表現することは外せないファクター。

だけど、世界観を表現すれば必ずファンが増えていくかというと、そうでもないなというのが僕の実感。

 

ファンを増やす、応援を集めるというのは、自分の世界観をドヤ顔で表現していくってことが、本当に、本当に重要だと思うの。

でもね、世界観の表現っていうのは、ある土台の上に成り立つと思っていて、この土台があるからこそ堂々と世界観が表現できるなぁと。

世界観というのは家の柱や梁といった骨組みみたいなもので、ガッチリとした土台があるからこそ倒れずに堂々とそびえ立つことができるのよ。

裏を返せば、その土台をしっかりと作らなければ、いつ家が倒壊してもおかしくないってこと。

なんでもそうだけど、やっぱ土台って大切なんだよね。

 

で、世界観を表現するときの土台って何なの? っていうと、

 

セーフティ

 

安心・安全。これが土台にあるからこそ、世界観の表現が効果があるわけ。

 

で、このセーフティは誰のセーフティか? ってことになるんだけど、ここが凄い重要で、セーフティの範囲が自分の肉体だけで終わらせてしまうと、ファンは集まらないね。

自分のセーフティしかない場合って、結局のところ、自分のことしか考えていない状態で、本人は楽しいけど周りの人が泣きをみる状態なのよね。

インスタとかツイッターとかで迷惑行為が動画になって炎上してるけど、そんな状態。

本人は、自分の世界観を表現しているだけなんだけど、周りの人にとってのセーフティが欠如しているから、炎上するんだよね。

そこまでではないにしろ、セーフティの範囲が自分にしかない状態で世界観を表現すれば、もの珍しさで一時的にファンは増えるかもしれないけど、結局、自分だけが良くて誰かに迷惑をかけている状態になってしまっているから、ファンがどんどん離れていくのよ。

 

だからね、セーフティの意識を広げていくのよ。

自分、周りの人、コミュニティ、会社、地域、日本、アジア、世界という風にね。

 

例を挙げてみようか。

例えば、セミナーをやりたいとする。

このセミナーを通じてファンを増やしていきたいと思ったら、そこに関わる人全ての人のセーフティを考える。

セミナーには誰が関わっているかというと、講師、受講者、スタッフ、施設関係者、主催者といった人たちが関わっているね。

これらすべての人たちがセーフティを感じるように、オペレーションを考えるということ。

 

講師だけが楽しくて受講者が退屈とか
スタッフが小間使いのような扱いをされているとか
使用時間を過ぎてもホールでダラダラしているとか
誰かが得をして誰かが損をするというのは、全然セーフティじゃないのよ。

 

さらに言うと、会場があるエリアの住民、関係者の家族、関係者の友人、知人などのセーフティにまで意識を広げてみる。

セミナー後に会場周辺にごみが散乱しているとか、騒音で落ち着かないなんてのはセーフティじゃないのよ。

参加者の家族が「そのセミナーに亭主は騙されているんじゃないかしら?」と疑問を抱かせるのもセーフティじゃない。

 

もっと言うと、行政や国や世界のセーフティも意識してみる。

「あのセミナーは、反社会勢力じゃないだろうか?」

「あのセミナーは、平和を脅かすものではないだろうか?」

みたいに感じさせてしまうのもセーフティじゃない。

 

こうしてセーフティの範囲を広げ、一つ一つ不安やストレスを取り除き、セーフティな場を作りあげていく。

これが世界観の表現の土台なんだよね。

 

セーフティってさ、信頼なのよ。セーフティの追求って、信頼を集めることにもなるんだよね。そして、信頼は応援に繋がるのよ。セーフティがあるからこそ、人に紹介できるのよ。だってさ、大切な人を傷つけてしまうかもしれないものを紹介できないでしょ。

 

この前、『応援が集まる人と集まらない人の差は、一体どこにある?』って記事を書いたんだけど、結局は『人』なのよ。

 

どこまでの範囲のセーフティを考えているかっていうのは、やさしさでもあるし、人間力ともいえるし、人としての器の大きさだとも思うのよね。

どんなに世界観を持って表現していたとしても、セーフティが自分の範囲にしかなければ、それはマスターベーションにしかならないからね。

 

 

ファンを作るためには、まずはセーフティ。しかも広い範囲のセーフティ。

セーフティという土台をガッチリと作り、人間力みがく。

それがあるからこそ、世界観の表現が功を奏すね。

 

結局は、自分の人間力がスタートということを、忘れないでおきたいね。