「人生は楽しむべき!」というプレッシャーが人生を苦痛にさせる
最近ね、自分の世界の感じ方がかわったなぁ、って思うのよ。
なんかね、自分の一挙手一投足が楽しいなぁ、って感じるんだよね。
これまではさ、
なんか楽しいことないかなぁ~
なんか退屈だなぁ~
なんて思ってた。
人生は楽しまなきゃ!
なんて、無理して楽しみを見つけ出そうとしてたなぁ。
今から13年ほど前、まだ内装の仕事をしているとき、毎日が退屈でしょうがなかった。
退屈を紛らわそうとして、毎晩仕事が終わったら近所を飲み歩いて、ゲームやって、テレビみて、マンガ読んで……みたいな暮らしをしてたんだよね。
でも全く心が満たされなくって、学生の時から取りたかったバイクの免許を取りに行って、バイクを買って、ツーリングに行くようになった。
それはすごく楽しかったんだけどさ、冬のバイクって超寒いのよ。
だから、冬はバイクに乗らなくて、コタツに入ってダラダラして、
「あ~退屈だなぁ、人生は楽しまなきゃなぁ」
なんて言ってたね。
今だから思うと、「人生は楽しまなければならない」っていう信念が僕にあったんだ。
この信念は新しいことを始める良い面もあるけど、それが出来ない自分を卑下してしまうようなこともあるなって思う。
人生は楽しんでも楽しまなくても、どっちでも良いんじゃないかな?
楽しみたいときは楽しんで、楽しみたくないときは楽しまない。
そんなスタンスでいいような気がする。
「人生は楽しむべきだ!」
みたいな誰が言い始めたんだかわからない考えを受け入れなくても良いなって、僕は思うんだ。
でね、最近、僕の何が変わったのかというと、自分の肉体の見方。
過去の記事にも書いたんだけど、人の肉体は神(宇宙)が体験をするためにあって、その一つ一つに神は喜んでるのよ。
なんかさ、そんなことに気が付いたら、1つ1つの行動が面白くなっちゃってね。
だってさ、神ってさ、呼吸すらできないんだぜ。
だって、呼吸する肉体を持っていないんだから。
でも、神は呼吸を体験したいと思ってる。
だから、僕らの肉体を介してそれを楽しんでるってわけ。
そんなことに気づいたらさ、箸を持っただけで
「あぁ、今、喜んでるなぁ」
とか、呼吸しただけで、
「今、神は楽しんでるんだろうなぁ」
とか考えるようになって、ひとつひとつの行動が楽しくなってきたのね。
時には、
「ほれほれ、これから肉を頬張るぜ!! 神よ、楽しみやがれ!!」
みたいなことをしたり^^
で、肉体として辛いことがあっても、
「あぁ、これすらも神は楽しんで喜んでるんだろうなぁ」
なんて思ったら、辛いことも大して気にならなくなって、逆に楽しくなってきたリしたのよ。
以前、僕が退屈で退屈で自分が生きている価値を見出せなかったときも、神は体験として楽しみ喜んでいたのよね。
肉体としては苦しみだった。
でもね、神は喜びだったのよ。
なんかさ、そんなことを考えていると、全てが喜びなんだな、って感じるようになった。
ただ指を動かすだけでも楽しいし、呼吸をしてるだけでも喜びを感じるのよね。
だからさ、人間が「人生は楽しむべきだ!」みたいなことを言わなくても、神(宇宙)はしっかり楽しんでいて、喜んでいて、神の視点で見ると楽しみしかないのだよ。
喜びしかないのだよ。
人生を楽しまないことも楽しみなのだよ。
人生は楽しみしかないし、喜びしかないんだとしら、「人生は楽しむべき」という信念は捨てちゃって良くない?
ってのが最近の大きな気づき。
以前、僕のメンターであるピーター・セージが
「人生には、神とのリレーションシップが大切だよ」
って話してくれたけど、なんか最近、神とのリレーションシップができてきた気がする。
これまで雲のはるか上にいた神。
でも本当はすぐそばにいて、友人としていてくれたんだなぁ、という感覚が広がっているんだ。
自分の行動の全ては、神を喜ばしている。
そこに気が付くと、神はグッと近くなる。
そんな実感が僕にはあるんだ。
これからも色々と神を喜ばせていこうじゃないか!!
楽しみにしとけよ! 神!!