世界を変えることは特別なことではなく、単に「わたし」の幸せの追求である
「わたしは、世界を変えます!!」
こんなことを発信して世界を変える人は、特別な人だと思ってた。
マーティン・ルーサー・キングやガンジー、ジョン・F・ケネディ、エイブラハム・リンカーンなどなど、ああいった歴史に名を残すような人は特別な人で、限られた人だけができる特別なことだと思っていた。
だから、自分には世界を変えるなんてことを考えるなんて恐れ多いと感じていたし、できないと思っていたし、そもそも世界は自分には関係がないと思っていた。
でもね、今の僕は、
「これまでにない新しい世界を創るぜ!!」
とか臆することなく発信しちゃってるし、そのことについて毎日考え、その活動をしている。
で、僕の中で何が変わったかというと、
「わたし」の意識の範囲
それまでは、自分の肉体が『わたし』だと思っていたのね。
自分の肉体以外は『わたし』ではない分離したもの。
だから、自分以外は興味がなかったし、自分さえ良ければよかったし、でも繋がりを感じないと寂しかったり、うまくいかないと怒りをあらわしたり。
貧国の子どもたちが貧しくて食べ物がないなんてことを聞けば、可哀そうだなとかは思うけど自分事として感じることができず、それは自分以外の誰かが解決すべきことだと思っていた。
でもね、目の前の人も「わたし」、所属するコミュニティも「わたし」、住んでいる地域も「わたし」といった感じで、空間の「わたし」の意識の範囲を飛ばしていった。
それだけでなく、時間の「わたし」の意識の範囲も同時に飛ばしてみた。
100年前の日本も「わたし」、100年後の世界も「わたし」。
全ての空間、過去現在未来、つまり宇宙全体が「わたし」。
そんな風に「わたし」というものを捉えてみたのよ。
そのように捉えてみると、世界に巻き起こっている様々な問題は、全て「わたし」に起こっていることなんだってわかった。
さらに世界で問題があるという状況は「わたし」にはストレスで、幸せを感じなかったり、楽しくなかったり。
世界を「わたし」だと捉えると、そこにある全てが自分事に感じられて、そこに問題があればそれに取り組むのは当然のように感じるんだよね。
結局のところ、世界の問題に取り込むことや世界をもっと幸せな星にするなんてのは、単に「わたし」が幸せを感じたいからやっているだけで、特別なことではないんだってこと。
世界を変えるとか、新世界を創るなんてのは、単に「わたし」の幸せの追求なんですわ。
特別な誰かがやることでも、誰かがやるべきことでもなく、「わたし」という意識の範囲を飛ばしていったら、自然とそうなってくる実感があるね。
「わたし」という意識の範囲を飛ばしたら、全てが自分事になる。
世界も宇宙も「わたし」。
それは、やさしさの起点になるんではないかな?
もしも、全人類が世界を「わたし」と捉え、生きることができたら、きっとこの世界は本当に全てにやさしい世界になるだろうね。
そんな新世界をつくっていきたい。