人間は自力で幸せになれないほどヤワな存在じゃない
「わたしがあなたを幸せに導きます!」
以前の僕は、このような意識でセミナーをしていた。
参加者を幸せにするのは、講師の役目であり義務。
講師は参加者を幸せにしなきゃいけない。
そう思ってたんだよね。
だからさ、周りの人に
「あっ、この人なら私を幸せにしてくれそう」
って感じてもらうために、いろいろと勉強したし、実践をして、コンテンツ化していった。
そして、その権威性をブログやメルマガで示していたんだ。
セールスをするときもさ、
「僕の商品だけが、あなたを幸せにすることができます!」
ってスタンスでセールスしてた。
もちろん商品には、それだけの自信があったから、納得して商品を購入してくれた。
ビジネス的には、そのスタンスでうまくいくようになったんだ。
だけどね、ある時から僕は「誰かを幸せにする人」というスタンスをやめた。
なぜなら、それが非常に傲慢な姿勢のように感じたから。
セミナーというのは、講師だけでは成り立たない。
聴衆がいてセミナーは成り立つわけだよね。
講師として成長するためには聴衆が必要なわけで、講師は聴衆に育ててもらっていると言っても過言ではないのよ。
ということはさ、講師は聴衆に幸せになるお手伝いをしてもらってるわけよ。
なのにさ、それをすっ飛ばして、
「俺がお前らを幸せにしてやるぜ!」
なんて、傲慢だなって思うのよね。
この傲慢さが「幸せにする人」「幸せにしてもらう人」って分離を生み、ヒエラルキーを生み、コントロールを生んでるなって。
そう思うんだよね。
セミナーというものをよく見るとさ、セミナーは講師や参加者、スタッフ、施設関係者など多くの人が関わって出来上がっているのよ。
互いがそれぞれの役割を全うしているから、セミナーというものが出来上がるんだよね。
講師一人でつくってるわけではないのよ。
そこに関わる人には、どっちが上とか下とかないし、誰が偉い誰が偉くないなんてこともない。
みんなが一つのチームとして同列で、共通のゴールを目指してる。
だからさ、役割はあっても、ヒエラルキーもコントロールもいらないのよ。
「わたししかあなたを幸せにできません。だから、わたしについてきなさい!」
なんてこと言わなくて良いのよ。
誰かが幸せにするのではなく、みんなで幸せになったらいい。
そう思うんだよね。
ある日、瞑想していた時のこと。
僕は、自分の偉大さに気が付いたんだよね。
自分がとてつもない力を秘めていて、可能性に満ちた偉大な存在であるってことに気が付いたのよ。
でね、そこで感じたのは、偉大なのは僕だけでないってこと。
全ての人が偉大な存在だなって感じたんだよね。
偉大な存在ってのはさ、自分で幸せになることができるってことなのよ。
誰の手も借りず、自力で幸せになれるってことなのよ。
僕に幸せにしてもらわなくたって、参加者は幸せになることはできるのよ。
そう気づいたからさ、「僕が参加者を幸せにするぜ!」ってスタンスをやめたんだ。
だってさ、本人はそれだけのことができる偉大な幸せなんだから。
僕が幸せにしなければいけないほどヤワな存在じゃないのよね。
僕はこれまで多くの人の力を見くびってたんだってわかった。
「僕がいなければ、この人は幸せになれない」
そう心で思ってたんだ。
本当にそうか? っていうと、そうではないよね。
僕がいなくたって、参加者は幸せになる。
だけど僕は、参加者を見くびっていたんだ。
幸せにする人、幸せにしてもらう人、というヒエラルキーを作り、僕が優れていて参加者が劣っているというマウンティングをしていたんだ。
知らず知らずのうちにそんなことをしてしまっていたんだよね。
講師と参加者に分離感があり、ヒエラルキーがあり、マウンティングがあり、コントロールがある。
だから、参加者を幸せにすることをやめたんだ。
それから僕はセミナーを作り替えた。
教える、教わるという分離をなくし、一緒に作り上げるスタンスに変えた。
ワークはあるけど課題はなくした。
もちろん期限はない。
やるやらないの強制もない。
すべて自分のタイミングで取り組んでもらうようにした。
これまでの僕が幸せにするスタンスであれば、僕が秘策を教え、課題を与え、期日までに強制的にやらせ、成果を出させる。
そんなことをしていた。
だけど、それをやめたんだ。
感覚的には、僕が公園という遊ぶ環境をつくり、そこで参加者が自由に遊ぶ。
そんな感覚。
公園でさ、「5分間ブランコ漕いでなさい」なんて言わないでしょ。
楽しそうだったら自分で勝手にやるのよ。
セミナーをそんな風につくりかえたんだよね。
作りかえてから2年が経つけど、人の成長がすこぶる早いという実感だね。
子どものころ、親に「勉強しなさい」と言われたら、一気にやる気がなくなったもんなぁ。
小学校5、6年生の時、宿題は自分で考えてやってくる、っていうクラスのルールがあったんだけど、自由度が高いから宿題をするのが楽しかったのを覚えてる。
小学生ながらに『学問ノススメ』の研究してるヤツとかいたんだけど、今思うとすごいよね。
「算数ドリルやってきなさい」って宿題だと、学問ノススメの研究は生まれないのよ。
セミナーもそうだし、子どもの教育もそうだけど、コントロールを手放して、好き勝手に自由にさせたらいいんじゃないかって思うんだよね。
周りが勝手に心配して、「わたしが幸せにしなきゃ」とか考えてコントロールする。
コントロールされた本人は、息苦しいって。
人間はさ、自力で幸せになれないほどヤワな存在じゃないのよ。
放っておいても、自分が幸せになるように勝手にやるのよ。
周りがとやかく言うことじゃないなって。
周りは環境だけ整えてサポートしたらいいなって。
環境作ったら、あとは放置プレイ。
それだけで良いんじゃないかって、僕は思う。