旅人、新世界をつくる

旅をしながら新世界をつくっている人の日常

僕のつくりたい図書館には教える人と教えられる人の分離感を持ち込まない

『創る図書館』をカタチにしていく上で僕が意識したいのは、分離感。

提供する人と利用する人

教える人と教えてもらう人

与える人と貰う人

つくる人とつくってもらう人

といったような分離感はなくしたい。

誰かが作る、わたしが作る、あなたが作る、ではなくて、われわれで作る。

そんな『われわれ意識』で作っていきたい。

 

これは、セミナーでもイベントでも、ぼくが運営統括をする時に意識をしていることなんだけどさ、誰かが作る、例えば、講師が作る、主催者が作る、といった意識で作っていくと、そこに心の分離感があってエネルギーが低くなるのよね。

これまでの経験で実感しているのは、講師だけが頑張ってもダメで、参加者だけが頑張ってもダメで、スタッフだけが頑張ってもダメ。

それぞれがそれぞれの役割を果たし、調和させていく。

みんなで作っていく。

そうすると、想像もしていなかったような素晴らしい時間になるんだよね。

本当に良いセミナーっていうのは、みんなで作っていくという意識があるなぁ、って感じてるんだ。

 

分離感ってさ、ヒエラルキーを産んじゃうんだよね。

場合によっては、ハラスメントを産んじゃうんだ。

僕のつくりたい図書館は、そうしたものは要らない。

そうするとさ、分離感がない、っていうのはデフォルトになってくるね。

 

分離感を無くすことを考えていくとさ、教える人と教えられる人、教師と生徒という関係が何年も続く学校というスタイルは、やっぱり違ってくる。

互いが教える人であり、教えられる人であればいいなって思うし、教える人は別に教師じゃなくてもいいなって思うのよ。

例えばさ、キャンプには大人も子どももいるんだけど、子どもたちは色んな大人から色んな事を学んでいくんだよね。

算数が得意な大人もいれば、歴史が得意な大人、草花に詳しい大人、料理が得意な大人、川遊びが得意な大人、焚き火が得意な大人、ゴミの分別に詳しい大人、色んな大人がいる。

そんな沢山の大人たちから、子どもたちは色んな事を学ぶ。

しかも、学校では教えてくれないことも学べるし、実践に基づく活きた知恵だし、大人たちは自分の好きを突き詰めているから、その知識の深さは半端ない。

要はね、身近にいる沢山のプロフェッショナルから学ぶことができるのよね。

さらにさ、子どもから大人が教えてもらうこともあるし、子ども同士でもさ、自分の得意なことを教え合うみたいなことがあるのよ。

キャンプ経験豊富な5歳児が、キャンプ未経験の30歳の大人に火の起こし方を教えたりするわけよ。

学年や年齢に関係なく、全員が師であり弟子の関係だったりするのよね。

 

小学校だったらさ、2年生くらいで掛け算を習うよね。

あれを教えるのって、教師が教える必要がないよなって思う。

掛け算ができる1年生が教えても良いんじゃないかなって。

自分が知りたいことを知っている人から教えてもらえばいいだけで、それが特定の先生とか、塾講師とか、親とかに制限しなくても良いんじゃないかなって、感じるんだよな。

成人になると、そうなってるよね。

知りたいことがあれば、セミナーなり教室なり、教えてくれる人の所に行くのは当たり前にやってるよね。

自分よりも年下でも、先生って呼んでる。

なのに、未成年はそうなってないのよね。

子どもの教育は教師や親がやるのではなく、みんなでやったら良いじゃん、って思うんだよな。

 

学校は学校としての役割があるし、当然ながら学校だからこそ得られるものもあるから、学校を特に否定したいわけではない。

だから、学校に行きたい人はいけばいいと思う。

でも、学校のスタイルになじめない人、違和感を感じる人には、別の受け皿があるといいなぁって。

その受け皿については、頭のいい人たちがあれこれと解決策を考えて、実行してる。

それはそれとして、僕は分離感のない学びの場というのをつくっていきたい。

そう思うんだ。