精神的自立とは心の隙間を自分で埋めることではない
本当にやりたいことができるようになるためには、自立が必要だなって思う。
特に、精神的自立ね。
まずは、ここからスタートだなって僕は思うのよ。
でもさ、精神的自立って何か? って聞かれたら、よくわからないよね。
だからさ、僕はちょっと考えて、
精神的自立は、自分で自分の心の隙間を埋めることができる状態のこと
って定義をしたんだ。
はじめのうちは、納得してたんだけど、最近、そうではないなって感じるようになってきたんだよね。
精神的自立は、自分で自分の心の隙間を埋めることができる状態のこと。
僕は、こう定義した。
ヒントは、依存。
依存って何かを考えた時に、依存とは、心の隙間を自分以外の何かに埋めてもらおうとする状態だな、って思ったのよ。
例えば、寂しさをお酒を飲んで紛らわしたり、無価値感をブランド品を買うことで満たしたり。
このように自分の心の隙間を自分以外に埋めてもらう、それが当たり前になって離れなくなっていることが依存だなって。
そう思ったのよ。
そうするとさ、自分以外ではなく自分で埋めることができるのが自立じゃないか? って考えて、精神的自立は、自分で自分の心の隙間を埋めることができる状態のことって定義をしたんだ。
この定義に沿って、実際に日々の行動を見直し、行動を変えてきた。
魂の声に従うことで心の隙間は埋まる。
そんなことを教わっていたので、心の声に従って行動するようにしてみた。
確かに、満たされている感覚がある。
なるほど!
これが精神的自立かもしれない!
そう感じて、さらに実践してみた。
お金と心を天秤にかけないようにして、魂の声をきき、本当にやりたいことをやる時間を増やしてきた。
2年前からは、旅を軸にして生きる、と生き方自体を変えてみた。
うん!
楽しい!
心が満たされている!
自分で心の隙間を埋めることを意識して生活していたら、本当に心が満たされていくのが分かった。
しかし、ふと思った。
心の隙間を自分で埋められることが本当に精神的自立なのだろうか?
魂の声に従って行動し、自分で心の隙間を埋めてみて感じたのは、それは精神的自立ではないということ。
その入り口には立っているけれど、自立はしていないな。
そんなことを感じたんだ。
というのも、『心の隙間を埋める』という行為が必要だということ自体が自立ではないと思うのよね。
精神的自立ってさ、自分で埋めるか、自分以外が埋めるか、っていうことではなくてさ、
そもそも埋めるべき心の隙間なんて無い
ってことだと思うのよ。
埋めるのは自分か、自分以外か、ってことを考えている時点で、心の隙間はあるってことだし、例え埋めても、心の隙間はまた生まれる。
この状態が精神的に自立した状態か? って考えると、そうではないなぁって僕は思うんだよね。
心の隙間ってさ、欠乏感なんだよね。
この欠乏感をどう埋めるか、誰が埋めるか、ということを考えているうちは、精神的自立にはならないかな。
そもそも欠乏感がない。
自分には足りないものは何もない。
わたしは十分に足りている。
そこに気づくことが精神的自立なのではないかって思うんだ。
僕は、魂の声に従って、行動する時間、機会が増えた。
確かに心が満たされた。
でも振り返ると、満たされてはいるけど、埋まったという感じではないかもしれない。
ただただ満ちている。
そんな感覚があるんだよね。
それも含めると、精神的自立の定義は、
自分で自分の心の隙間を埋めることができる状態
ではなく、
自分は十分に足りていることを知っている状態
とする方がしっくりくるな。
精神的自立とは、自分は十分に足りていることを知っている状態。
現時点で僕は、このように定義した。
自分で定義しておいてなんだけど、僕はまだまだ精神的自立には程遠いなぁ。
だいぶマシになったけど、まだまだ欠乏感があるのよね。
でもさ、欠乏感がなくなったとしたら、自分は十分に足りているということが完全に腑に落ちたとしたら、本当にやりたいことが24時間365日できるなって思う。
生き方の一部ではなく、生き方全てが、本当にやりたいことができる。
そうなったら、人生はもっと楽しくなるね。
そして、そんな人たちが世界中に溢れたら、世界はもっと楽しい場所になるな。
だから、まずは僕は自分の欠乏感とさらに向き合っていこうと思うんだ。